<ウクライナとロシアの対立の原因は、文化や宗教をめぐって起こったキエフ大公国にまでさかのぼるあまりにも古い軋轢にある>

ウクライナの危機については、経済や安全保障の観点からさまざまな解説がなされている。だが、それだけでは事の本質が見えてこない。ロシアとウクライナの紛争に関しては、文化的、歴史的、宗教的な背景を知ることが重要だ。

それは「ロシア」とは、「ロシア人」とは何なのかという問いにさかのぼる作業。そして古い「神話」をめぐって、その正しさはわが方にあると、どちらが主張できるのかという点に集約される。

昨年7月12日、ロシア政府の公式ウェブサイトに、ウラジーミル・プーチン大統領による「ロシア人とウクライナ人の歴史的な一体性について」という論文が掲載された。プーチンをはじめとして多くのロシア人の考えを形成する歴史的な視点を知る上で、重要な資料だ。

まず、プーチンや多くのロシア人は、ロシア人とウクライナ人を同一の民族と見なしている。ロシア人は「大ロシア人」、ウクライナ人は「小ロシア人」と呼ばれる。ベラルーシについても同様で、国名は「白ロシア人」を意味する語に由来する。

1547年にイワン4世が戴冠したとき、公式の呼び名は「全ロシアのツァーリ(皇帝)」だった。「全ロシア」とは、キエフ大公国の後継国や諸公国を指している。

キエフ大公国は、9世紀のバイキングを祖とするリューリク朝の治世下にあった。リューリク朝はノブゴロドで発祥し、その後882年にキエフに遷都。キエフはリューリク朝の諸公国の大首都となった。この頃のモスクワは僻地で、初めて文書に記されたのは1147年だった。

キエフ大公国を祖とする3カ国

ロシアとウクライナ、ベラルーシの関係が他の旧ソ連諸国とのそれと大きく異なるのは、起源とする国が同じだという点だ。

この3国は、いずれもキエフ大公国を文化的・政治的な祖としている。プーチン自身もこの考えを信奉しており、自身の論文にこう書いた。

「キエフの君主は、古代ルス(ロシア)において支配的な地位にあった。これは9世紀後半からの慣例である。『原初年代記』には、オレグ公がキエフについて語った『ロシアの全ての都市の母になれ』という言葉が残されている」

プーチンも示しているが、ロシアとウクライナの密接な関係を示す説の裏付けの大半は宗教に絡んでいる。始まりは、988年に東方正教会を国教としたことで知られるキエフ大公のウラジーミル1世だ。

ウラジーミル1世が正教に改宗し、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)の皇女を妃に迎えたことで、この帝国にさかのぼる正統性の系譜が始まることになる。

1113~25年にキエフを統治したウラジーミル2世モノマフは、「全ルスのアルコン(支配者)」という「ギリシャ式」の呼称を好んだ。モノマフの名は、ビザンティン帝国皇帝コンスタンティノス9世モノマコスにつながる系譜に由来する。

ビザンティン帝国は、正教会のトップを務める総主教による戴冠が行われた皇帝を擁し、諸国の王やアルコンの上に立つ存在だった。

だがこの秩序は、東方からの征服者に揺るがされる。まずモンゴル人の侵入を受けたキエフ大公国がいくつもの属国に分割され、さらに1453年にオスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落。栄華を誇ったキエフは荒廃した。ロシアの王たちの上に君臨していたビザンティン帝国の皇帝もいなくなった。

15世紀後半にモンゴル勢が弱体化し始めると、当時は「ロシア」と呼ばれていた旧キエフ大公国の一部が正統性を取り戻そうとした。しかし西部地域では、現在のウクライナ西部の大半がポーランドに併合され、ベラルーシがリトアニアに吸収されるなど、さまざまな脅威にさらされていた。

かつてキエフ大公国の中心地だったウクライナがその名を得たのは、この頃だった。ウクライナと呼ばれるようになった根拠については、主に2つの説がある。

多数の歴史学者とロシア政府が支持する説では、1569年にキエフ大公国の中心地だったキエフがポーランド王国の支配下に入ると、この地域は古代スラブ語で「国境の隣」を意味するウクライナと非公式に呼ばれるようになった。ポーランド側から見れば、平原に接し、タタール人などの半遊牧民がいたためだ。

引用元: ・プーチンの異常なウクライナ「執着」の源...1000年に及ぶ歴史から完全解説 [きつねうどん★]

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