
日本の高齢者たちは、医療ケアの最中に何を経験しているのでしょうか?一般的な報道ではあまり触れられることのない医療の裏側を今回は明らかにしていきます。高齢者たちが直面する悲惨な最期の実態について、その現状を突き詰めて考えてみましょう。
日本の医療システムは、高齢者のニーズに応えるべく構築されていますが、その実態は思わぬ側面を持っています。例えば、認知症を抱える高齢者は、最後の数年間を寝たきりの植物状態で過ごすことがあります。彼らは人間の尊厳を失い、周囲の世話や声かけによって家族の自己満足イベントの一環にされてしまうのです。
しかし、この問題については意見が分かれます。蛭子さんのような一部の人々は、家族の自己満足行為であると批判しますが、他方で自己満足であるからこそ意味があるとする意見もあります。この点については、内面的な側面についても蛭子さんのご意見を伺いたいところです。自己満足だから良くないという考え方もある一方で、家族が高齢者に触れたり声かけをすることによって、彼らがその死を受け入れる時間を持つことができるのです。
突然の死は常に悲しいものですが、地域や文化によっては時間をかけて死を受け入れることで、より穏やかに別れを迎えることができます。日本のような地域では、時間がかかるほどに死に対する悲しみも薄れていく傾向があります。このような状況では、遺族や家族が遺憾なく見送るために触れたり声をかけたりすることは、実は自然な流れと言えるのです。
しかしこの問題にはもう一つの側面も存在します。それは、高齢者の医療行為における延命措置や介護の自己満足ではなく、経済的な要素が関与している可能性です。例えば、高齢者に対して行われる「色」と呼ばれる医療処置があります。これは栄養を詰め込むために胃に穴を開け、人工的に栄養を供給するものです。しかしこの手術は点数が高いため、医療機関にとっては収益の源となります。
しかし、このような医療行為が本当に高齢者の幸せに繋がっているのでしょうか?実際には、この手術を受けた高齢者は意識不明の状態が続くことがあります。栄養は供給されていますが、身体は不自由であり、水分が溜まってむくみ、苦しい状態になってしまうこともあります。最終的には咳や痰によって苦しむうちに溺れるようにして死んでしまうのです。
このような延命措置が、高齢者の苦痛を長引かせる結果となっていることは明白です。しかし、医療機関にとっては高齢者がベッドを占有し続けることで収益が得られるため、経営上は好都合なのです。そのため、一定の期間を確保するために色を施し、延命を図ることが行われているのです。
こうした事実を踏まえると、保険適用されるべき医療行為とされないべき医療行為の基準が見直されるべきです。先進国の中でも、日本だけが色を保険適用している状況は異常であり、他の先進国では虐待として認識されています。もちろん、交通事故や怪我などで必要な手術に対しては保険適用されるべきですが、高齢者の食事摂取が困難になった場合は、病気や怪我ではないため保険適用されないのが一般的なのです。
このような状況を考えると、保険適用の見直しや倫理的な観点からの議論が必要です。医療行為における倫理的な問題や患者の尊厳を尊重する視点から、高齢者の最期における医療ケアの在り方を再考する必要があります。
高齢者の医療ケアにおいて、自己満足や経済的な利益に基づく医療行為が存在することは問題です。医療は患者のために行われるものであり、その目的は患者の健康や幸福を追求することにあります。しかし、現実には医療機関の経営上の都合や患者数の確保などの要素が介在し、本来の目的が逸脱してしまうことがあるのです。
この問題を解決するためには、まず医療従事者や関係者の意識改革が不可欠です。患者の尊厳を最優先に考え、倫理的な観点から医療行為を判断することが求められます。また、医療制度自体も改革を迫られています。保険適用の基準や手続き、医療費の設定など、高齢者の医療ケアにおける公平性と質の向上を図る必要があります。


