織田信長の長女であり、徳川家康の妻として期待された「五徳ひめ」。しかし、彼女の人生は予想とは異なる困難と苦悩に満ちたものでした。夫や舅との関係が複雑で、幸せな人生を歩むはずが、逆に長くて辛い道を辿ることとなりました。

信康との結婚後、二人の間には二人の娘が生まれましたが、嫁姑の関係は円満とは言えませんでした。特に信康の母であり、家康の正室でもある月山殿との関係は上手くいきませんでした。月山殿は、五徳が二人の娘を出産したにも関わらず男子を産まなかったことを理由に、五徳を責める傾向がありました。

また、あるエピソードでは、信康が食事中に五徳に用事を伝えたところ、五徳が応答しなかったために信康が怒り、彼女を叱責したという出来事もありました。五徳は怒り心頭に発し、信長に信康の非道を訴える手紙を送ったと伝えられています。これらの逸話が全て事実であるかは分かりませんが、嫁姑関係が円満ではなかったことは確かです。

当時、信長は名実ともに天下人の地位にあり、家康は信長に従属する立場でした。このため、五徳にとっては自身が信長の娘であるという誇りが、従順な妻として振る舞うことを難しくしていたのかもしれません。こうした嫁姑の問題が五徳と信康の夫婦関係にも影響を与え、次第に悪化していきました。

築山殿はこの状況を目の当たりにし、信康に次々と側室を進めました。信康もこれに同意し、二人の側室を持つことになりました。この二人の側室は、敵対していた武田家の家臣の娘であり、五徳と信康の間にさらなる溝を作る結果となりました。五徳と信康の夫婦関係が悪化していくことは、領地の統治にも良い影響を与えませんでした。

こうした情勢は信長と家康の耳にも入り、夫婦の関係修復のために岡崎を訪れました。しかし、二人の関係を修復することはできなかったと言われています。その後、1579年に「信康事件」と呼ばれる出来事が起こりました。この事件については最近の研究で新たな見解が示されています。

通説では、信康と不仲であった五徳が信康を訴える手紙を信長に送り、信康が処断されたとされています。しかし、最近の研究では、家康が自らの判断で二人を処断した可能性が浮上しています。実際、築山殿が武田家に内通した記録が残っており、信康と築山殿は家臣団を引き込もうとした動きもありました。このような要素が家康と信康の関係に疑念を抱かせ、信康事件についても新たな見方が生まれたのです。

五徳は未亡人として晩年を過ごしました。彼女の人生は順風満帆とは言えませんでしたが、その姿勢と苦難に立ち向かった強さは称賛に値します。五徳ひめの生涯は、当時の戦国時代の女性の苦悩と困難を象徴するものとして、後世に語り継がれるでしょう。

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